光の光の光の愛の光の

3月末の金曜日。寒の戻りというかまだまだ全然肌寒い夜風が吹く日の続く仙台。久しぶりにベスのライブを観にフラサンへ。"epoch"と名付けられた20時くらいから2マンライブが始まるこのシリーズは2022年に毎月行われていた企画でもあり、今回久しぶりに復活しての開催。
長らく住んだ東京を離れ仙台に戻ってきて、またすぐいったん関東へ旅立つことになる2022年のはじめ。安いチケット代で気になるバンドがふらっと夜にライブハウスに立ち寄れば観れるイベントは自分にはとてもありがたかったし、対バンが多いイベントはもうこれまでに致死量くらいライブというものは観た気がするのでなかなか厳しく、自分のペースで無理なく観たい・ライブハウスで時間を過ごしたいのが今の本音なので当時simsiisとの回に喜んで遊びに行った。
余談だけれどもその時の終演後にちょうどsimsiisが止まることも聞いたけど、月日が経ってumisayaも活動的にやっているし、simsiisも大事なタイミングではまたライブをしていくようだしよかったなぁ。

スタート時間ちょうどくらいに到着し、入場しながらお茶割りをもらう。オクダくんはフロアで弾き語りするらしく、彼を囲むようにけっこうたくさんの人たちが座ったり立ったりしながら温かく見守っていた。
オクダくんを慕うティーンズの犬飼くんも最前で体育座りしていた。SNSでも見かけていた通り何か謝罪でもするかのような素朴な短髪になっていたが、今年に入ってから会えていなかった気もするのでこの地を離れる前に会えてよかったな。そう、出会いと別れのこの季節に進学や就職やその他もろもろでこの土地を離れる人は多く、仙台のバンドをやっているような若者は地元の高校生は大学進学で仙台を離れ、大学で仙台に来ていた者は卒業と共にこの地を離れる人が多い。けっこういなくなりがち。地元出身でずっとこの地にいる人もいるはいるが、20代前半の人たちの入れ替わりは激しい方だ。もちろんいなくなってしまうバンドも。
弾き語りはゆっくりと時間を使いながらゆるい空気で進み、途中に夕方さんことベスのベースの奏仁くんへの無茶振りで、1曲披露もあったりして(声も良いし素晴らしかった)、終盤へ。
「これがあれば対ベスなんてワンパンよ」なんてポストもしていたライバルでもある自身のバンドとの対バン用書き下ろしの新曲「ラストダンス」
ベスやっててよかったー
— フェスティバル会場 (@seikatsu_niceka) 2025年3月28日
これからもまたがんばります
ありがとうございました pic.twitter.com/GgHOBYBBLw
Live movie
— フェスティバル会場 (@seikatsu_niceka) 2025年3月31日
2025.03.28
ベス ツーマン企画ファイナル
『epoch』vol.13 オペレーション・ラストダンスよりラストダンス
撮影: @umizoi_kawazoi pic.twitter.com/0V4NKN2UMn
歌詞も動画もその後公開されているけど、とりあえず聴き終わって頭の中で反芻して汲み取った大意と会場内での殴り書きのメモが今回の主な文章の大半なので少し違う部分もそのままで記させてもらいます。
"冴えない天気と自意識と残高 あきらめなくちゃいけないことばかりなのに"
"まだあんたとお前とまだ見ぬ誰かと 話したりないことばかりでどうしようかな"
"笑われながらラストダンス それが似合ってるかな"
ベスを終わらせるつもりで当日の朝4時に完成させたという曲は一聴するだけで、まだ特別なアレンジはなにもされていないボロボロだけどピッカピカの歌で手放しで美しかった。
「周りのみんなに言われるけど、呪いなのかなんなのか、どうやらどうしてもまだバンドをやめられないみたいだから」
「これまでも下手くそなやり方すぎて、epochをやっていた頃なんかは(バンドも自分も)ここからどっかに行けるかもしれないなと思えた日々もあったけど、結局どこにも行けなくて。周りのバンドや友だちはしっかりと歩みを進めてる間も自分だけずっと同じようなことをやっていて...」
「でもやめることをやめてまたがんばります」そう告げてソロの出番を終えて、2018年から始めて8年目となるベスの出番へ。
この日はチームベスのwoopie groupieからサポートを迎えた4人での演奏。単純にいいライブをしていて見に来てよかったなと個人的にも思えたし、どう考えてもオクダくんはバンドをやった方がおもろい人間だと思っているのでそれを再確認して温かい気持ちになった。
「自分のやりたいことが怖くて不安でいつも人にヘラヘラしてしまう人間だけど、バンドをまだがんばることを決めたんでよろしく」とMC。
2022年のベストソングのひとつでもある最終日もちゃんと聴けて嬉しかった。良すぎるので当時友だちにオススメしまくってしまった曲。
ふと演奏を終え暗転し始めたタイミングでステージ上の本人から
「あ〜ベス組んでよかったな〜〜」
この"〜〜"の感じでボソリと声が漏れていて、それがすべてを表していたのでそれに尽きるな〜〜と感じて心の中で大団円。
誰かにとってはそこまで大それたことじゃなくても、自分のやっていることを肯定できる瞬間ってそこまで人生で多くはないから(少なくとも自分は)、そう思えて言葉が漏れたのは最高だとはたから見ていて思えたよ。
オクダくんに自身がハマっている自覚はないのであれだけど、たまには自らスカしてないで気まずいとかお邪魔だろうなーとか思わずにステージで後片付けをしていたオクダくんにちゃんとすごくよかったと一言感想を伝えてきた。たぶん言葉じゃあまり伝わらないと思ったからなんかありがとうねという感じで握手をした。
最低だと思ってた日々はきっとこれからもまぁまぁ続いていくと思うけど、ベスの未来は明るくしか見えないけどな。何回どう考えてもそう思うし、もし誰も興味が無くなっても、彼ららしさが損なわれないならずっと大丈夫だと思う。愛も光も確かにそこにあった。布団の中のまだ冷たいところを探るように、安心できるまで好きにやってほしい。
言われなくてもそんなことわかってるなんて誰かにヘラヘラしながら言われそうだけども、ベスのいちファンとしての殴り書きでした。愛を込めて。

美しさ
2025年2月7日。寒波とか積雪とか全国的にそんな天気なの珍しいなと思いつつ、窓を開けると屋根に雪は積もっているけど日向の路面は積もってないなと外を眺めて思っていた日。昼の12時に色々と揉めていたNew JeansがNJZとして活動するというニュースとLagwagonの来日ツアーの解禁、そんな中に混ざって流れてきたのは目を疑いたくなるガガガSP桑原さんの心不全による訃報の知らせだった。

昨日あたり、ついこないだTHE STARBEMSの企画にて対バンしてたキイチくんが「これでいいのだ」をストーリーに挙げてたところじゃなかったっけ。
2000年代初頭、思春期真っ只中だった自分は高校に入って初めて好きな音楽の話ができる友達と出会った。メロコアやスカパンクも大好きだったけど、ちょうど流行りだした「青春パンク」と後に雑にひとくくりにされた音楽には、背伸びしても大人にはなりきれないし、恋や部活や友情というベタな青春に忙しかった多感な高校生にはすべてが眩しく、そして心の代弁者のように感じて熱狂した。
今でも覚えてる。2001年10月1日。GOING STEADYのメンバーが表紙のストリートロックファイル創刊号の発売日。宝島社発行だからたぶんsmartかなんかを読んでいたら表2にでっかく広告があったんだ。15歳の少年は学校が終わると八木山から仙台駅方面に下り坂を自転車で駆け抜けて街に繰り出していた。私服校だったので自由だった。記憶が確かなら先輩なども含めて飲食店に集まる用事がありそこに向かっていたが、自分だけ寄り道をして書店に寄った。通るルートからすると今は無き金港堂本店だったかもしれない。平積みになったストリートロックファイル。表紙に並ぶSHORT CIRCUITの文字。ちょうど好きで聴いていた時期で、付き合っていた恋人の実家におじゃました時にもお兄ちゃんの部屋にもCDが置いてあってアガッたのを覚えている。そんなバンドやそれ以外の気になるバンドが雑誌で読める。今のようなインターネット時代ではないので、それはそれは右も左もわからない少年には貴重なブツとして輝いて映った。大事に大事にMAMMUTのオレンジのリュックにしまってみんなの元へ急いだのを覚えている。なによりも嬉しかったのが特典CD。イノマーさんの解説付きで初めて聴くバンドがどれもその時の自分が求めていたものばかりですぐに夢中になった。


そのうちすぐに青春パンクブームが来てメディアでも紹介されるようになると途中から模倣合戦になり飽き飽きすることになるのだけれど、この時期は冒頭にも書いたようにとにかく目が離せなかった。大人になってから振り返るとよくわかるけど、ハイスタに憧れてハイスタ周辺のコピーから同じようなファッションやメロディーなど表面だけ掬って固めたようなバンドは掃いて捨てるほど現れては消えていった。ゴイステみたいなバンドも死ぬほど増えたけど、これまた好きな音楽やパンク、ハードコアがあってたどり着いた音楽性ではなく、モノマネみたいな熱くて青春や恋や友情を売りにした恥ずかしくなるような歌詞とMCのバンドがこれまた出てきてはボロボロになって消えていった。今聴くと懐かしいのでそんなに嫌いじゃないけどね。若い頃も今も自分が何様でもないし人より特別に造詣が深いわけでもないのでダサいものが好きだった時期も今となってはだいぶ愛おしいです。
参考程度に個人の体感と出来事をまとめておくと、
⚫︎1999年-2000年 ブーム前夜
モンパチのアルバム"GO ON AS YOU ARE"がゆっくりと各レコードショップでロングセラーに。ゴイステ"BOYS &GIRLS"
⚫︎2001年 各バンドの代表的な音源が発表されていく。青春パンクの先頭を走る存在の台頭
ゴイステがARABAKIに出演。"さくらの唄"発売。東京代々木公園野外ステージフリーライブ「東京初期衝動」で5000人を動員。STANCE PUNKS"スタンスパンクス"発売、氣志團"One Night Carnival"発売、ストリートロックファイル刊行、モンパチ"Message"発売、あなたにがCMソングに。
⚫︎2002年 青春パンクブームの規模がどんどん大きくなる
ゴイステ"童貞ソーヤング""夜王子と月の姫"発売、モンパチと共にGreen Day来日サポート。ガガガ SP"卒業""卒業アルバム"メジャーデビュー。STANCE PUNKS"クソッタレ解放区"発売、三角公園ゲリラライブ3000人、氣志團、代々木公園ライブ20000人、175R"Go! upstart!"リリース。太陽族"男の子""花火"
⚫︎2003年 メジャーデビューや紅白など一般のメディアが扱う規模になる
ゴイステ解散、銀杏BOYZ結成。175R代々木公園ライブ25000人、メジャーデビュー、紅白出場。FLOW"贈る言葉"発売。サンボマスターメジャーデビュー。
⚫︎数年後
ブームが去り、各バンドの展望はさまざま。多くの一発屋は消えていった。
こんな感じです。
そんな特典CDの中でもvol.1で一番好きだったのがガガガ SPの「線香花火」。25年経とうとする現在でも長年愛されてきたガガガ SPを代表する1曲。そこからファン歴はスタートし、翌年の仙台のこのライブにてようやく目撃することになる。

今思い出したけど、地方住みの人が陥るバンドあるあるで、しばらくなんとなく「ガガガエスピー」って自分の中では呼んでた。人とガガガの話をすることもないし、どこかから呼び名を聞いたこともなかったから、正式な読み方とか全然わからなかったしね。NOFXのステッカーとかもハンジローとかで買ってたけど、賭けに出てノーエフと読んでみたくらいだった覚え。音楽が好きな人の母数や仲間が多い東京はそんなことなかったのかもしれないけど。周りに共通の趣味の人がいるかどうかはとても大事だった。
話を戻すと、大きなコンサートと、同級生や先輩のコピバンに誘われてでしかライブを観たことがなかったので、これが自発的に小さなライブハウスに行ったのは初めてだったはず。今見てもチケット代安いし、メンツも豪華。マカナのドアを開けたら人がパンパンなのも、ぎゅうぎゅうに人の波があちこちに押し寄せるようなフロアの様子も想像してた世界が目の前に広がっていて興奮した。
たぶん初めてのダイブもしたことでしょう。後はこの日かわからないけど、当時髪を明るく染めてブカブカの服を着て(わかりやすく言うと裏腹が流行り、IWGPのドラマが放送され、Dragon Ashや窪塚洋介らが雑誌の表紙を飾っていたような時代)、画像のような蛍光グリーンのボディピアスで拡張していた身なりの自分は(若気の至り)、モッシュとクラウドサーフでもみくちゃになり、耳を蹴られて耳たぶの下がそのまま裂けて、真っ白な弱男Tシャツの左肩が血に染まっていたけど、友達に指摘されるまで一連のことすべて気付いてないくらいアドレナリンが出ていた思い出があります。


とにかく楽しかったな。今でも目の前の演奏やパフォーマンスに心奪われている人たちの眼差しはライブハウスでよく見かけるけど、当時の自分も紛れもなくあの顔をしていた。まっすぐ前を見つめてドキドキしっぱなしだった。
そこからはCDを買い集め、ツアーで来てくれたらライブに行く程度だったけど、ちょこちょこ間隔は空いても観れていた。
とある日、自宅の玄関の前に出ていたら、後ろから
「...行けよ男たち 山を越え 谷を越え 中途半端なまま突き進め それが人間だ...ブツブツ...」
と突然ゆっくりと格言みたいな言葉が聞こえてきて何事か?と思ったら、うちのじいちゃんがその日僕が来ていた弱男Tシャツのバックプリントの歌詞をこれはなんだ?と気になり、読み上げていたのでした。
めちゃくちゃ厳格でばあちゃんを日々怒鳴り散らしていたこわいイメージが大半だった祖父が、いたずらそうな顔をして読み上げていたので思わず笑ってしまい、こういうバンドがいてねー、と説明した覚えがある。
祖父が亡くなって、かわいげがあったエピソードや意外な一面を見せた思い出は数える程だけど、いつもこの場面を自分は思い出してしまう。
ちなみにこのTシャツは高校のロッカーにあらゆるものをぶち込みまくっていたらいつの間にか紛失していて当時めちゃくちゃ悲しかった覚えアリ。
上京すると好きなバンドも音楽も増え、生活が変わったのもあり新譜をチェックするくらいだったが、一時期はレンタル禁止の時期もあり、アニメ主題歌期などは少し疎遠になっていたかもしれない。
渋谷でずっと働いていたこともあって、音楽の仕事を時折り探すたびに宇田川カフェとかもやっているガガガ の所属先でもあるLD&Kに入れないかなとか、何度もぼんやりと考えていた。
勢い任せにカラオケで歌うのもガガガだったし、好きな子と部屋でだらだらしていて突然懐かしくなってガガガとか青春パンクばかり垂れ流して爆笑しながら気づいたら朝方まで夜更かしていたこともあった。
あとすべての恋人との別れにガガガ SPは側にいた。条件反射のように失恋したら聞く身体になっていた。ベタだけど一応今回も聴いておくかと、しつこいくらいに。お前は何歳になったらガガガ聴くのも女の子の気持ちがわからないのも直らないんだよと自問自答の日々だった。自分からフっておいてもなぜだかフラれた未練タラタラのような曲を聴いていた。



人生の活力のひとつだった。例えが昭和過ぎて泣けてくるけど夏と海水浴場はTUBE、冬とスキー場は広瀬香美、失恋はガガガSPと銀杏BOYZだった。ただ銀杏はなんというか後味悪いというか自分にとっては良くも悪くも重すぎる存在だったので、ガガガくらいしみったれつつも前に進め的なラフな感じがいつも心地よかった。故に登板回数が多かったんだろう。
コロナ禍にupされていたYouTubeをなんとなく見た時には桑原さんが自分たちの楽曲のイントロクイズ対決をしたらやけに強くて、最終的には3対1で戦わされていたり、桑原曲の"正義の味方"が好きすぎて、ずっと自分の人生のテーマにしていたり、killerpassはやしっくもオススメしてるし2000年〜のアルバム"ストレンジピッチャー""THEガガガ SP"なんかも安孫子さんと一緒に聴いて、曲の作りもこれまでのガガガ ともまた違うし、ガッタ山本のギタープレイはあいかわらず最高だし、めちゃくちゃ良いね!なんてよく話してた。
https://youtu.be/ba4xyuESbmU?si=es339OTyf-rYwrQ-
少し前のリプレイスメンツで前田さんとかとは話したりできたし、渋谷スターラウンジでセンセーションズとかとやった時なんかも好きなんですーとかなんとなくは伝えたことはあったけど、桑原さんとは話したことなかったな。


最初のアルバムの"光"の時から桑原曲が好きで、その後のアルバム曲でも、ある意味前田節よりもさらにまっすぐな言い回しの歌詞もいつもハッとさせられる魅力があるよなーと思っていた。みんなのうたにそのままいけちゃうようなポップな曲ばかりで。あと自分の性格的にボーカルやリーダーよりもその脇で良さを発揮している役割の人がどうしても気になってしまうので。
曲が好きだと直接伝えることもないまま時間だけが過ぎちゃったな。叶わなかったなー。伝えたいなんてただの自分のエゴでしかないけど。知人でもないからこそ、いちファンとして伝えたかった。
10代、20代、そして30代と接し方は違えど聴いてきたバンドのメンバーの突然の訃報に驚いてしまったけど、これからのバンド活動に期待すると共に、残してくれた楽曲をこれからも聴いていきたいなと思い、気づいたらあの頃の青春を思いだしてつらつらと今夜も書いてしまいました。
ガガガSPのこれからの活動にも期待しつつ、残してくれた楽曲は大切にこれからも聴きたいと思います。


the moment you shine
数ヶ月前に書いた日記のような文章だけど、ひとつひとつその時の自分の気持ちや友人とのやりとりを大事にしたり記録したりしつつ暮らしていきたいので、書き殴りっぱなしで放置していたけど一応残しておきます。
7月(今月)にはTHE SATISFACTIONをはじめ、NINJA BOYZ、either、OMOHIDE-KYO、Four Tomorrow、merci merci meら、自分がこれまで関わったりお世話になった人たちばかり揃いも揃って北海道ツアーがある。まじで日程被りで微塵も行けないんですが絶対楽しいだろうなと思うし、北の大地とサティスファクションは過去を振り返っても相性がいいので、楽しいのは当たり前に刺激的な時間がそこにあればいいなと思います。応援電波というウソみたいなしょうもない概念はありますが、今回ばかりはそれとか生き霊みたいなもの飛ばしてみようと思います。いやほんとに友達しかないないのになんでや!という気分。100回は思った!


そんなわけで、先日のレコ発の映像を公開がてら(実は非公開にしてただけでとっくにアップロードしてたやつ)、駄文を添えて。
https://youtu.be/Yo9m-lypJS0?si=V-wyny2hyXdFHgZl:emberd
--------------------
2024年になってもう2月になってしまったけど、年明けにはここ10年くらい気にかけていてここ6年くらいはお節介していて直近は物理的な距離だけ遠くなってしまったバンド、サティスファクションの新しいアルバムが出ました。
そして1/20には下北沢SHELTERでレコ発もめでたく行えました。楽しかったすね。
どうせ長くなるけど記録は残しておこうと思います。
前作"夢現小路"の時はレーベルからのリリースにこぎつけるところから制作はもちろんツアーまで完走して3年間くらい40本弱のライブ全てとそれに伴う日常の時間を共に過ごした。サティスファクションはそんな存在。







なによりメンバーはもちろん、元メンバーや周りの人たちも個人的にすこぶる友達。サティスファクションはそんな存在。
今作"朱夏"のテーマでもある、青春の次に来る、"夏の太陽の様に燃え盛る勢いに満ちた年代”というのは、つまりは30代以降の青臭く未熟な青春の残像と実り多き人生の季節の間で心情がグラグラ揺れてるけどバシッとやらなきゃいけない場面もそりゃ多くなってくるよなという、自分も例に漏れず当てはまる時期のことで。

どの曲もなんかそういうにおいがする曲たちで。アルバムで聴くことに意味がある、本来の意味でのアルバムとして成り立っている音源だなーって思ってます。いい曲が多いし。レコーディング音源含め、メンバー以外で1番聴いている人間でしょう。飽きるくらいという言葉はあるけど本当に飽きたくらい長い年月世に出なかったから、本当は関係ない自分でも手応えがわかりづらいくらいに。
いつ頃作ったかもはや曖昧なくらいだけど4年くらい前に録った?3年前?とりあえずようやく久しぶりに世に出た感はあります。
ライナーノーツやリリースINFO書いてます。ライナーノーツは行き違いによりめっちゃ小さい文字で世に出てしまったので、LPサイズに個人的にでかくプリントしちゃうか考え中。
ライナーノーツもここに書いたようなどうでもいい雑感やサティスファクションとのやりとりをメモに残し続けた記録のほんの一部なので、世の中にとってはあまり意味のないことだけど、自分にとっては意味のあることに時間をかけていきたい。無駄が存在できる世の中でありますように。無駄を笑える暮らしでありますように。そんな感じ。
裏ジャケの写真とクレジット欄の河原の寝そべり写真も撮りました。
結局色々やってんじゃねーか!と自分でも言いたくはなるけどMVの撮影と物販についてはタッチしてないし、前回の時はなんか楽しいながらもみんな苦しい感情もありつつ完成した感があったけど、今回はそういうのまじでなかったから万々歳です。
レコ発前日。

大塚の中華で軽く呑もうということになり、池袋に到着していたのでひと駅気分良く歩く(身体の中は胃もたれと空腹という謎のテンション)。
遅刻魔にも関わらず早めに着いたので駅のアトレでトイレに篭ろうとしたら、既にう◯ちを終えたまつもととエスカレーターですれ違い、遭遇。
ほどなくしてまつざわbnjが合流してお酒が角打ちスタイルの中華で団欒。酒を飲まなかったのでだいぶ回復。
道中、何年か前に自分が使ってたイヤホンがまつざわとお揃だったんだけど、断線してしまったのでワイヤレスイヤホンをとりあえず間に合わせで買って使ってるのが音質がうんち過ぎて
困っているのでまつざわに今イヤホンなに使ってるか聞いたら出てきたのがこれ。

また意図せず同じイヤホンを愛用。ほんとに音の良さとか自分はわからないとは本人談。耳悪くても良い曲は作れるんだなぁ。
泊まらせてもらいながらもなんだかんだ遅くまで話し込んで就寝。昼ライブ、リハ一番手、物販の搬入もあり数時間後には出発。レコ発の朝は早い。
レコ発当日。





シェルターがまだ空いてない時間には到着。広内が薄着で寒そう。ロンドンで友達に買ってきてもらった◯◯万のルイスレザーを着たいだけのコーディネートだろう。繰り返すが寒そう。
ここのところまつざわの顔を出すライブや飲みの席、交流が増えたからか友達大集合って感じで自分も会いたい人がたくさん来ていた。お昼のライブはみんな酒が残ってたり仕事の疲れで遅刻かサボりがちだけど、雪の予報も出るくらい珍しく冷え込んだ日にみんな足を運んでくれたのはサティスファクションの愛され度が高いからだと思う。決してすごく人気があるバンドではないけど、周りに期待されて、周りも刺激できるバンド。
ここは細かな話になるけど、実際に予約も来てくれたら実数も前回のレコ発と比べたら上々と言えるくらい多かった。サティスファクション自体遠距離バンドではあるけど、人の縁や繋がりはパワーアップしているんだなと感じれて他人事なのに嬉しくなったよね。
演者や関係者含めて100人以上あそこにいた中で控えめに言っても自分の知り合いや友達が7割はいたと思うので、普段仙台で会う知り合いの数と天と地すぎてかなり楽しかったけど全然話せなかったのが寂しいっす。
LIFE IS WATER BAND

一応バンド化した時の試行錯誤のメンバー変遷は見届けてるくらいには大好きなバンドで。
もういいのはとっくにわかってるけど、自分はまだ観てなかった"怪物"という新曲がアッと反応してしまった。サティスファクションにとって自分は時々心のアニキと呼ばれるけども、自分にとっては超さんが東京の心のアニキ。そして超さんのアニキが長沢さん。そんな感じ。全員いたので安心する。
FOUR TOMORROW

山岡さんが完全に日本に戻ってきているのは知っていて、リプレイスメンツでも見たけど、高円寺HIGHでのスプロケとの対バンでどうやら優勝したっぽいし、銀杏BOYZの峯田氏もインスタでFOUR TOMORROW最高だったと書いてたし、調子良さげでした!"Corner"は新曲といえば新曲だろうけどこちらもだいぶ長い年月観てる気がしてるので、まっさら新しい新曲や今書く曲や歌詞を断然ファンとしては聴きたいですね。レコーディングも控えてるようなので楽しみです。東京に来て今自分が住む世界に馴染めたのはFOUR TOMORROWのおかげみたいなところはあるので万が一ダサいことでもしない限りたぶん死ぬまで永遠にリスペクト。
THE GUAYS

生粋のライブバンドである彼らもなんだかんだ観るようになってから長いと思う。2013年か2014年あたりの彼らが上京してきて間もないくらいにA PAGE OF PUNKとの対バンで知った。RAW VIBE.vol.2かグアイズのレコ発あたりか。その時期はアペイジのスタジオに顔を出して密着みたいなことを数年やっていた時期で、スタジオ終わりにみんなで屋根裏のたまりみたいなところで飲むんだけど、ツトムさんがグアイズっていうバンドが関西から来て、とにかく気合いが入ってると漏らしてたところから気になり始めた。まだベースがユウシくんになる前だね。全感覚際や2マンシリーズで色々と関わり、FEVER OF SHIZUOKAでも道中のドライブに乗せてもらって大変お世話になった。メンバー全員、農園にも何度も来てくれたし、キャプテンは共に汗を流して悩んで意見をぶつけあい励ましあった友だち。でもそんな贔屓目みたいなのは完全になしでみんなに一回ライブ観た方がいいよと手放しで言えるのがグアイズ。
新曲をどんどん作ってライブでやってるのは知ってたけど、"開けっぱなしの窓"、"Blue Distortion"が初見でも完全にアンセムで度肝抜かれてしまった。全員には言えなかったけど率直な感想をメンバーに直に伝えたくらいには素晴らしかった。あと、余談だけど終演後の物販でLPが飛ぶように売れてバタバタしている時に自分たちの物販もそこそこに横で黙ってそのまま手渡しできるようにLPを袋に入れてストックしてくれる。キャプテンはそんな男。いつもありがとう。
THE SATISFACTION

今回のアルバムからの曲も数曲やりつつ、これまでの持ち曲もバランスよく演奏していた。
ステージ袖と、ステージ正面の人混みの中、物販席からといろんなところからライブを堪能した。全然もっとやって欲しかったけど今日はこのくらいでちょうどいい。ワンマンライブをやってくれるのが夢。あとおまけでもなんでもいいから日比谷とかそうじゃなかったら上野とかそういうとこでいいから野音でサティスファクションを見たいです。何回か個人で勝手に野音の抽選だけ参加して権利を得ようかなとクリトリックリスの時のような件が頭がよぎったけどまだ過ちは犯していません。
朱夏、照明が朱く照らされる中で出るのか出ないのかの高いキーを熱唱しているまつざわの表情がなんか自然体で良かったな。心の底から繕う事なく歌っている気がした。

"こころのすみにでもおいてくれよ"
記憶が確かなら2019.11.4のTHE STEADYSのStudio Oliveでのライブで初披露とかじゃなかったっけな。
この時期はライブ毎に新曲を1曲ずつ披露してて、毎回ライブに行くのが楽しみだった。スタジオ内でバンドを囲うように眺めていたら今までにないようなドラムの展開で珍しいなーと思ったのでなんとなくこの日だったと覚えている。
この曲とアルバムにも収録されている"やんぐ"
は2020年の年明けから春にコロナが押し寄せてきた時期にリハ音源みたいなのを勝手によくリピートして聴いていて、ちょうどその頃に先輩であり友人のしょうじさんが癌に侵されてしまって急にもう会えなくなってしまったのと重なり、ずっとずっと聴くのをやめられなかった時期がある。
"たりない頭で考えてる 短いいのちを考えてる"
"当たり前さ 答えなんてないから わからないさ 悩むのやめて 今はただ笑ってたいな"
"あの頃からなんにも変わらないし たぶんこれからもそうだろう"
"人は消えてゆく 跡形もなく消えてゆく 健康第一破天荒であれ なんにせよ自分次第だ"
"もしもあした君に会えなくなったら おれは残れるかな何が残せるかな"
"君がちっとも興味 無いのはわかってるけど
できたらこころのすみにでもおいてくれよ"
個人的にすごく気持ちが楽になったんです、あの時。めちゃめちゃショックだったから。ちゃんと向き合えたし、ごまかすこともできた。ありがとう。
これは前のアルバムのツアーの写真、岡山での楽しい夜。はしゃぎすぎですね。まつざわくん、載せてすまん。供養。

明星のギターソロでコイケが反応して興奮していたり、あさのくん、かいとくんたちも会えたけどゆっくり話せなかったり。うえもとさんとも挨拶しかしてないな。この世で唯一かもしれないサティスに影響を受けたバンド、マッハエスカルゴだったとしきもいた。物販を手がけたのもハルちゃんやすがぬまくんだし、話せていない友だちが多すぎた。好きな人が集まるとややテンション高くうるさくなる自分でも話せる人数には限界がある。


打ち上げも何パターンかに分かれて開催され、自分はいつものみんなに囲まれたくなり、NINJA BOYZ御一行やDMDメンバーのいるところへ。ミーハーっぷりを発揮して、そこにいたSHORT CIRCUITモリヤスさんとお話しして写真をお願いした。我が青春。
全部が全部、ここ10年くらい味わってきたいつも通りな空気すぎて少しセンチメンタルになりました。改めて自分は東京でこんな楽しいことを何年もやってたんだなと。うらやましいぜ。
正直、東京でのバンド周りの時間やみんなの暮らしの流れみたいなものからドタドタと音をたててそこから逸脱してしまっているのをひしひしと感じている。地方で暮らすということを考えて、たまたまコロコロアニキとメッセージやりとりした時とかも少しだけそんなことについて互いに言葉にしたり。
でも時間は止まってはなくてサティスファクションがかまってくれたので置き去りにならなくて済んだのかもな、なんておおげさだけど思った。あいつらなりのやさしさを感じた。これは昔からだけど。
もちろん情とかだけじゃなく、おれも参加した方がよりよいものが生まれる楽しい日になる、単純に役立つ、そう思ってくれてるからだとは思ってますよ、ちゃんと。そうじゃなきゃ哀れすぎるので。
仙台は生まれ育った好きな街だけど、まだまだ楽しむきるには今の自分はちょっと力不足。少しずつできることやってくしかないです。






わりと前にインフルとか風邪とか引いて、その後から回復してもわりとずっと咳だけ残ってたり、胃や腸や頭痛やなんやとどこかしら不調だったけど・東京いる間も帰ってきてからもウソみたいになんもなくなった。東京の空気が合ってるのかもねなんて家族に言われたり。
空気は確実に東北の方がうまいし、東京は息苦しいし空気も全然美味くないけど、まぁ確かにそうかもしれないなとかも思う。
見えないストレスとの戦いは意外と簡単なところに出口があるのかもしれない。
LPは発売したばかり、春になるのか夏になるのかわからないけどまだこのアルバムが世に出ておもしろいことはやってくだろうし、いくつか自分も動いていくと思うので、
あいかわらずサティスファクションとその横にいるうるさい友だちである私をこれからも温かい目でどうぞよろしく。



ひろうちは三日坊主。
2600グラムの温もり

二十歳を過ぎたくらい。大学は2年間で単位を取りまくったので時間割りはスカスカ。キャンパスも友達とバラバラになっていたのでひたすらバイトばかりをして、向かいにあったタワレコや隣のHMVに週5で入り浸り、夜な夜なドライブしたり飲んだりして遊んでいた、そんな頃。突然ミニチュアダックスの赤ん坊が知り合いから譲り受けた形で我が家の一員となった。
好奇心旺盛でやんちゃで甘えん坊なそいつは、名目上は一応姉が飼うということで面倒を見ていたが、性格も関係して、熱心にかわいがっていたのはその頃から母親の方だったように思う。
自分は先に書いた通り当時あまり家にはおらず、朝方にバイトや遊んでから帰ってきて寝るだけという感じでほとんど出歩いていた。愛犬の面倒を見るということに関しては家族の中でも完全に3番手、4番手という感じ。"犬は飼い主たちに対して順位付けをしない"という見解も近年ではあるみたいだけど、もしあったとするなら自分は完全になめられていただろうな、という立ち位置。
その後、大学卒業、就職で新潟、即辞めで舞い戻り、そして程なくして上京してしまったので、なかなか帰省しないタイプの自分に、人見知りのうちの愛犬は警戒し、関係性もたびたびリセット。しかし、「あっ、これ知ってる人だ」と気づくと尻尾をフリフリしてうるさいくらい賑やかに吠えて飛び跳ね、お腹を天井に向けてひっくり返り撫でてアピールをかましてくる。「かわいいところもあるじゃないか〜」とご満悦な気分に浸っていると、1分もすれば「さて...」みたいな真顔に表情を変えてスタスタと何事もなかったかのような態度でどこかへ去ってしまっていた。なんともドライな関係だったけどこれはこれで好きだった。

月日が流れ、兄弟たちはみんな進学や就職や結婚で家を出て、家には両親と祖父母と愛犬だけ。そのタイミングで姉は母親に犬の世話も託していき、母親が子供たちがいなくなった家で我が子のように手をかけてかわいがっていた。
さらに月日が流れ、コロナ禍がなかなか終わらず、大何波がどうのこうの言いながら1.2年が過ぎた頃、父親の高所からの落下での怪我で入院、母親の体調不良の入院、祖母の介護や施設問題、そして愛犬が高齢によっていろんなところが悪くなり治療費も日々の世話も気を抜けないくらいの状況になっていた。
東京で威勢よくそれまでの仕事を辞めたはいいものの、たまたまタイミングが最悪過ぎて、その後の世の中の雰囲気・ムードにいまいち自分らしい暮らしが取り戻せていなくて悩んでいた自分は、何度か抵抗はしたけど結局先延ばしにしていた地元に戻る選択肢を一度選んでみることにした。
そこから今日までのおよそ2年間は、かつてのドライな関係は惜しまれつつも解消して、必然的に何をするにも愛犬と一緒だった。

脚力が弱り寝床まで昇れなくなれば部屋を改装し、足が滑りやすくなれば家中の床は全てマットで覆った。散歩もできなくなったら家の中でどうやって運動したり気分転換できるか考えながら生活圏の部屋を変えて、ご飯をどうやっても食べないわがまま期間にはキッチンと部屋を何十往復もして加熱したり水分を加えたりフードを変えたりと気にいって手をつけるまで1食に1時間かかることも毎日ザラだった。
かつてはきちんと決まった場所にできていたトイレも、そこら中にするようになり、部屋の中はトイレシートで埋め尽くされ、それと共存できるように家族が寝る場所も作った。どうしても家に誰もいてあげられない時などは完全に反抗してうんちを気にせず踏んで自由に歩き回って悲惨な状況になり、床のじゅうたんやカーテン、毛布など1日に何度も洗濯する日々。
どこのお家でも大小異なりはすれど、日常茶飯事のことかもしれないがなかなか大変ですよね。心折れそうになる時だってある。でも愛くるしい。
途中、農園に数ヶ月滞在した際も農業に興味を持って一部分だけだけどすっかり詳しくなったのと同じで、犬という家族のこと、すっかりいろいろと調べて局所的にだけ詳しくなっていき、少しずつ意思疎通など呼吸が合っていった。あんなに僕に興味がなかったあいつも、毎日腕の中で抱き抱えられてご機嫌に昼寝したりり、早くご飯ちょーだいと携帯をいじってるところに駆け寄ってハァハァとおねだりしてくる。あと鼻水垂らしてるとこそっと服にこすりつけてきて知らん顔してバレてないと思ってるのもかわいい。
通院も週に数回。注射代やあれこれ試行錯誤したフード代やどこまで延命に向けての治療にするかどうかなど何度も頭を働かせた。
これは夕暮宇宙船(ハルちゃん)が昨年発表した漫画(各所からの反応の大きさを数字は物語ってるけど、数字とか関係なくまごう事なき名作)を読んだ時にいろいろ感じたことにも一部分だけ繋がるんだけど、名義上の飼い主である姉は子育てと仕事に忙しく離れて暮らしているし、実質ここ10年くらいはマンツーマンで母親が世話をし同じ部屋で寝ている。父はあまり得意ではないということもありお世話にはそこまで参加していないし世話をしながら目も離せないことの大変さをあまり理解していないようだ。治療費も祖母の介護費とかも含めると家計を苦しめるばかりなので、どこかで線引きしないといけないという悩みがあった。姉や周囲はなにか悪くなったら寿命として仕方ないというスタンス。心配性で世話焼きな母親はできることはなるべく全てしてあげたいと。目の前にかけがえない温もりがあると、どの意見も強く決断することがなかなかできなかった。
"思想と生活の筋を通すには経済的自立が必要で今の自分にはそれが欠けているということ"
"そんな考えや悩みも今目の前にいる命には関係がないこと。あるのは今そこに存在してくれている事実だけ"
漫画の作中のこんな発言を何度も思い起こしていました。ハッとしたし気持ちを正すことができた。

ーー何度か命が危ないという時期も確実にあって、人によっては今日が最後に会えた日になりそうだね、って言ってたのに、持ち前の負けん気と生命力で季節を何個か超えてまた全然再会できたりするからなんとも頼もしくてかわいくて仕方なかった。
昨年の夏にとうとう余命1ヶ月も持たないと宣告されてからも秋を超え、冬を越え、どんどん体重は軽くなるけど、好奇心や甘えたさはおじいちゃんの癖に逆に増すくらいで、体調も落ち着いていて17歳、人間で言うと84歳ほどになった春先のある日、突然ガクガクと痙攣して顔つきや様子もおかしくなってしまった。時間をかけて様子は落ち着いたけど、水を飲む行動も自立する力の神経もあまりうまくいかないようだった。深夜にそうなった時は母親と自分で交代して抱きかかえて夜を明かし、数日は変化なく過ごしてきたが、3日目、4日目となるうちに1日のほとんどは起き上がらず目を閉じ、食事も受け付けなくなっていった。朝になったら息をしていないんじゃないか?そう思って日が昇る頃に様子を見に行くと穏やかな顔で体を覆っているタオルケットはやさしく一定のリズムで揺れている。どこにそんな力があるんだって思うくらいに気持ちが強い。
プライドが高かったからできるだけ母親や僕にかっこ悪いところは見せたくないらしく、寝ていておしっこがしたくて立ち上がれなくて失禁してしまった時はかなりショックだったらしく、落ち込んでプルプル震えて弱々しい声で吠えていて、駆けつけて無事だったこととその様が情けないサラリーマンのような哀愁に満ちていた表情で思わず安堵と共に笑ってしまった。そんなできごともそういえばあった。
容態が変化し衰弱してから6日目。身体の周りを汚してしまったらしく「大丈夫だよ、きれいにしようね〜」と身体を洗おうと母親が抱き抱えていたら、たとえ微かでもこれまで確かにあった反応がないことに気づき、人生を全うした最期を一緒に看取ったのでした。
覚悟もしていたし、ゆるやかに穏やかに眠りについたので、後日の火葬まですみやかに事は進んだ。うちの一員として家族でいてくれてありがとうと感謝ばかり感じていた。そしてこんな時に実感したくはなかったけど、葬儀屋さんとの段取りやお世話になった人への連絡やあれこれ、長男としてのムーヴに一切無駄がなくやれてしまったけど、家族や親戚のこういうしきたりめいたことはしばらくは御免だなーってなんとなく思った。もうちょっと、いやまだまだみんな元気でいてほしい。
ゆっくりお別れの時間も持てたし、人の意見や心の浮き沈みに流されやすい母親のことを心配していたけど、いまのところギリギリ寝込むことも体調を崩すこともなく過ごしていて少しほっとしている。
愛犬のために仕様を変えまくっていた我が家のあれこれを大掃除と荷物の整理をしながら大規模な模様替えして、ここ1週間から10日間くらいの特にバタバタした日々が落ち着きを見せたけど、まだ愛犬中心に過ごしてきた日々の癖が抜けず、いつも待機してかまってほしそうに顔を覗かせていた階段の上のゲートのところに廊下を通るたびに目線を送ってしまったり、食事を済ませたり帰宅したら、一度様子を見てあげなきゃという思考につい囚われたりしては母親と互いに笑っている。

ーーごくごく個人的な家の中の話は本来そこだけでしておけばいいし、人によっては重かったり余計な話だったりする命や暮らしに関わることをわざわざわざ書き留める趣味は元々ないんだけど、触れちゃいけない話にするのもなんだし、毎日何十時間も過ごした家族との別れは当たり前に寂しいので、少し先の自分が今の気持ちやこの数年の暮らしを少しでも思い返すときに自分で読みたいなと思って文章につらつらと残してみました。
正直生活を犠牲にしたり苦しいときしんどい時たくさんあったけど、ベタだけどそれ以上に何事にも変え難いしあわせと温もりを与えてもらったので、自分はたぶん死ぬまでずっとそういう人生を選んでいく気がしています。大事にするもの、選択の仕方みたいなものは。
なんとなくこの時期に映画「i ai」の仙台上映のサポートと、とある音源制作をみっちりしていたので記憶と音楽が紐づいてそうだな。
自分がしっかりしなくちゃなーっていうのと、1番寂しいのは自分じゃないからと全然ふつーのメンタルでここ数日暮らせていたけど、忙しいのがひと段落して全部いろいろ思い出してこうやってまとめようと振り返りながら書いてたらもう鼻水ぐっしょぐしょ。終わり方も決めてなかったしどうしよ。


とりあえず、このログインばかり求められる情報化社会で、パスワードを忘れた場合にたまにある"秘密の質問"は、すべて「あなたが最初に飼ったペットの名前は?」にしてあるから、もう少し自分が歳を重ねてボケはじめてパスワード忘れがちになってしまったら、その時は思い出せるように力を貸してね頼むわ、りく。
R.I.P April 4th,2024
Little did I imagine

"人の好意や
人の働きっぷりや
人の熱意を
どうか軽んじないでね"
"目敏いし口うるさいかもしれないけど あなたのがんばりはちゃんと見てるよ気にしてるよ なんにも無駄じゃないから 安心して好きなことしててよ"
なんとなくそんな意味を込めておニューのKYO-TEKIステッカー。数年ぶり。
権力や地位や名誉に搾取されたくはないし、仕事はfuckだけど、好きなことくらいでは気持ち良いメンタルでいたい。悩んでも大変でも健やかな気持ちに還っていきたい。これってそんなに望み過ぎてるってこともないはずでしょ。
弱者の声に気づかないで、仲間や功労者へ感謝を表せなくて、我が物顔でPUNKとか一切語らないで欲しい。クソッタレ。ほんとそんなこと毎日思う。
誰が自分の生きてる世界で大事か、助けてくれるか、助けたいと思うか、刺激しあってるか。歳をとる毎にだんだんと選んでいく人生になる。どんどん関わる人が増えていく道もあるし、ほんとうに自分が目の届く領域だけ大事に大切に愛情で暮らしを守っていく道だってある。
だから自分を卑下せずに、いつも誠実でいたいよね。
嘆きの気持ちとお守りみたいな気持ちと自分のスタンスみたいなものを見失わないように。強い気持ちでいれるように。何年経ってもまた無駄なことをやってみました。完成しました。ステッカー。(とっくの昔に作ってたけど入稿がめんどくさくて放置しまくってたデータを季節を超えて掘り返した)。
バンドマンでもないと、なにかのプロでもないと、ステージに立っても、制作しても、記事書いても、写真や映像使ってもらっても、裏方として作家しても、永遠に人に紹介しづらい謎の奴。でも好きなことなのでまだまだ継続してやれることはやりたいんです。肩書きがないと態度を変えたり仲良くなれないようなやつは信用してないです。友だちはどんな奴でも友だちだろうが、バカ。
ちゃんと見てるよ ぼくは見てるよ がんばってる君のこと〜


くだらないの中に0701
上半期もう終わったらしい。早い。時間軸がずれまくっているので頭おかしくなりそうだけどそれはそれ。
あちこちオードリーの星野源の回、めちゃめちゃよかったなぁ。マニアックなどこかのはしっこのようなものを主軸に推し進めていくことや、自分にとっては無理がなくて辛くない、その割には結構喜んでもらえること(言葉の意味そのままに簡単に言うと語弊があるけど)が仕事に向いてるとか、病を経験してから、生活を当たり前に大切にするように変化したこととか。あと、ガッキーを結衣ちゃんと言い直したとこの一連のやり取り。
たまたまここのところ松永良平さんの著書を今さらちゃんと読んでみたら今の自分にストンと入ってきて、そのなかでSAKEROCKとの出会いや過ごした時間についての話を直近で触れていたのも大きく響いた要因だったかもしれない。
元々若林のこと好きなところはあったけど、ここ数年次第にその存在が自分の中で大きくなってきている。彼らが提唱している第三次オードリーブームにまんまとなのかもしれない。オーバーオールを着だしたら誰か止めて欲しい。
GO FOR THE TOPはヒヤヒヤながら。雨の時間が長い。
所用の為、部屋を深夜に片付ける。こうやって考えると季節はすぐ移り変わっていくなぁと、出したものの着なかった衣類をまたしまいつつ思う。環境を整えたりキレイに維持するのは心にもいいはず。
豚しゃぶをゴマだれで
■チャンスの時間(ウエストランドの河本が最近ツボ)、あちこちオードリー、サボってた分の金属バットの声流電刹、かまいたちのヘイタクシー、有吉の壁ラジオ
梅雨が終わらない0630
この街で過ごす時間も増えたもので、ずっと前からわかっているようなことだけど、そりゃ民度が知れている。切り取り方によっては自分もそんな一味だろう。チェーン店やコンビニ、駅やいろんなところで痛感する。いまとなっては脱出したい街。
最寄りは休館日なので公園の方の図書館を利用。中にいたからならではの目線もあるけど、P社の書籍とかいいとこ突いてるの多いよなぁ、と改めていろんなところで並んでるのを見ては感じる。逆に今になってちょろちょろ読んだり。中央図書館がもっと近ければいいのに。もっといろんな図書館巡りたい。
たまに雑誌連載で読んでいたやけのはらコラムでの内容だけど、赤塚不二夫の名言に触れていた。
「自分が最低だと思っていればいいのよ。一番劣ると思っていればいいの。そしたらね、みんなの言っていることがちゃんと頭に入ってくる。自分が偉いと思っていると他人は何も言ってくれない。そしたらダメなんだよ。てめぇが一番バカになればいいの。」
いろんな人の言葉を噛み締めて、自分の血肉になるかどうか確かめている。先人たちの考え方と人生の知恵。
GO FOR THE TOPに失敗。一勝一敗。
アメトークの配信用ストロングゼロに合うおつまみ企画が頭にあったのか、小宮が選んでいたので、帰ってから餃子とレモンサワー。
■やけのはら/文化水流探訪記、Ken yokoyamaのサブスク解禁した新譜、有吉ぃぃeeeee!のカレーの曲のMVをなんだかんだクセになってもう3回位観てることに気づく
